自分の日常を文章で記録しておくことについて

自分が日々生きてきたことなんて、今の同時代の人にとってはどうでもいいことで、取るに足りないようなこと。だけど、長い時間が過ぎた後に、日常をきっちりと覚えているか、記録に残しているかっていうことは、とっても大事なことなんじゃないかなって、最近、とても思います。

 

それは、僕が日記をつけてきたという個人的な経験からも思いますし、なんというか、生きることの意味を考えたときに、日々の生活、過去の思い出、未来への想像とかが大きなカギになるんじゃないかなと直感的に、なんとなく感じているからです。

 

直感的に、なんとなくっていうのは、あいまいですね。曖昧ですけれども、確実に、なんらかの形や意味をなして、未来の自分の人生に降りかかってくるような気がしています。

 

日々の生活と未来への想像というのは、その時の自分が努力すれば、なんとでもなるのですが、過去の思い出というのは自分の記憶や写真や文章といったものを手がかりにするので、自分の努力ではどうにもならない要素があります。

 

未来の自分がどんな形で、自分の過去を掘り起こしたり、編集をするのかはわかりませんが、ストックや素材を残しておかければ、やりようがないわけです。

 

なので、私は自分の日常の記録をできるだけしたいと思っています。時代を経ると時が流れると、そういうものの価値は本当に跳ね上がるからです。

 

その手段としては、

例えば、写真や映像は、そこに映っているものは完全に客観的な情報ですが、それに対する解釈については、その時々の自分の考えや気分で変わる可能性があります。

対して、文章は、完全に主観的な情報で、場合によって何を意図していたかすらわかりませんが、その時の想いやその時自分がどんな考えに影響されていたかなどと雰囲気や息づかいや「感じ」が残されています。

 

それで、私は後者のものに非常に魅力を感じています。なんらかの形で、そういう時代や時代に影響されている自分の「感じ」を文章の形で未来に残していきたいなと考えております。

 

社会的に意義があれば、それは大変喜ばしいですけど、自分の人生の節目節目に過去に書いたものみて振り返りたいなと思います。

 

そういう意味でも、私は小説を書き始めたのかもしれません。小説の中に込められた当時の自分の想いや「感じ」は生きたまま、その中にうごめいていますから。

 

文章のつながりが曖昧で、微妙な感じですが、お付き合いありがとうございました。

 

また会いましょう

それでは

 

 

機上にて

 

取り立てて書くことはないのだけれど、とりあえず、せっかくまとまった時間があるから、ブログを書いてみようと思いました。

 

バリ島行の機上でございます。

 

書き始めてみるとですね、意外にですね、まぁ、すいすいと筆が進みましたね。(フリック入力 by iPhone

 

どうぞ、お付き合いください。

 

このところ、というか、この数ヶ月、いろんな表現を真似したり、エッセンスを抜き出したり、エッセンスじゃなくて枝葉末節でもあっても自分の中に取り込みたいと思っておりました。

 

映画にしても、ドラマにしても、アートにしても、メールの文章であっても、そこから受ける、情報の感じ、のようなものを取り入れております。

 

取り入れて、自分なりの表現を日々、実践しながら、探しております。基本的には文章を書くことです。その次に、副次的に、TwitterInstagramで投稿しています。

 

さらに、友人関係における会話もその中に入ってくると思いますし、仕事におけるアウトプットや成果物も入ってくると思います。

 

あらゆる表現という表現が、自分の中の、感覚、感性、世界観に左右されてくる気がするんですよね。

 

それらをこねくり回して、鍛えて、作り上げた時に、何の役に立つかわかりませんが、自分が生きてきた、生きていることの、何らかの証になるのではないかな、と考えております。

 

そういう意識をもって、日々生活をしております。

 

なんと言いますか、

 

アーティスト、というとお高くとまっていて、いやみに聞こえることこの上ないのですが、その、なんというか、表現がしたいんですね。

 

自分の世界観のようなものを。

 

それが何なのか、このブログでは手を変え品を変えやっておりますけども、

 

ちょっとずつ、自分のそれを自覚したりしながらも、まだ掴みきれてなくてモヤモヤしたり、そういうことを繰り返しながら日々、文章を書いているわけです。


例えばですけども、今は、野球をテーマにした作品を(自分で作ったものをこう呼ぶのは、おこがましいですが、他に適切な表現がないので「作品」と呼びます)作っております。

 

当初は、人工知能や自動運転などを取り入れた、近未来的、スペクタクル的(スペクタクルの意味は知らないですが、それらしいので使います)、エンターテイメント性の高い作品を作ろうとしていました。10月くらいから、ほそぼそと拵えていました。

 

近未来のプロ野球はこうなるだろう、という未来予想図のようなものを書いていました。

 

が、

 

1万8000字くらいまで、すいすいと書けていたのですが、そこからどうしても伸びなくなりました。 

 

壁にぶつかりました。

 

野球と近未来のテクノロジーというところから出発したのですが、その一定の字数に達したところで、自分の中で大きな違和感が起きてしまって、ニッチもサッチもいかなくなりました。

 

それで気づいたのは、

野球そのものや未来ではなくて、自分と野球の関係性について書きたいのだな、ということでした。結局、自分がどう思うか、自分がどう感じるか、という自分本位なところに落ち着いてしまうのです。

 

自分とその対象についての関係性、自分はその対象についてどうように捉えているか、というのが、一貫したテーマのような気がします。

 

なんなんでしょうね、途中で書きたいことが変わってくるのは。そういう変節は。自分という人間が、意志を持ってやっているの確かなんです。ですけど、その違和感のようなものは、自分でもわからないのです。

 

違和感を処理して、その後に、自分の中か湧いてくるものを追加する。その湧いてくるものというのが、どうも自分の意志を超えているような気がするのです。 

 

自分の意志を超えている。その一方で、自分本位ものを書いている。なんとも不思議なものなのです。

 

そういう自分の「感覚・感性・世界観」というものに、文章や写真などの表現を通じて、なんらかの形を与えております。そういうことに、僕は、根拠のない自信とこの上ない喜びを感じているのでしょう。

 

どういうものが出来上がるのでしょうね。

このへんで失礼します。

 

それでは

生活が一変してしまった

 

交際相手ができてしまいました。

 

それはそれで、非常に喜ばしいことであることは間違いないのですが、小説を書く時間が圧倒的に減ってしまいました。

 

ただ、作業時間が減るだけなら、作品の完成が遅れるだけなので、問題ありません。

 

それよりも、深刻なのが、小説を書く情熱のようなものが消えてしまったことです。

 

その情熱は、日々の生活の、鬱憤やストレスから生まれてきていました。

別の言い方をすれば、小説を書いていた時は、現実世界であまりうまく行っていないことから来る、やり切れない想いが、私を、小説へと駆り立てていたような気がします。

 

しかし、書きたいと思わなければ、情熱がなければ、誰からも責められることもないので、筆が止まってしまうわけです。ただ、交際相手のいる、幸せな毎日が続くわけです。

 

「これでいいのか?」というぼんやりとした不安にも、襲われています。

 

でも、この今の、交際相手ができたばかりの浮ついた気分のようなものも、何かしらの形で、作品の幅を広げる影響を与えてくれるのではないか、と私は睨んでいます。

 

基本的にこれまでの文章は、鬱々としたものが多かったので、少し変化が生まれることを期待しています。

 

そういう、個人には貴重な、世間にはありふれた、幸せのようなものを私は感じているのですが、素直に喜べない部分もいくらかあるのです。

 

なんとも、非常に贅沢な悩みではあるのですが。

 

この、手が止まった状況は、2ヶ月もすれば変わってくると思うのですが、もう二度と、情熱が生まれてこなくことを、恐れています。

 

 

 

それでは

今を生きないようになって

 ここで言う、「今」というのは、流行りとかトレンドとかテレビやニュースなどです。日々、世間や世の中というところで話題になっている情報です。

 

そういうものについて行かなければと、思っていました。でも、それに時間を費やしていても、同じような情報に触れた人間と同じような考え方になるだけだ、という気がしました。

 

なんだか、それが嫌だったんです。

それで、頑張ってついていかなくなったというのが正しいですね。

 

特に、自分で文章を書くようになってから、それをすごく意識するようになりました。

 

今、書こうとしている話は、この前誰かがテレビで言っていたとか、この前誰かがツイッターで言っていたとか、

 そういう情報の出所に、気づいてしまうんですね。生きている限り、多かれ少なかれ、そういうことはあるのですが、

 

ただ、なんとなく情報に触れているということが嫌になったんです。なんとなく自分の頭の中に入って、なんとなく理解したような気になって、しばらくすると頭の中から跡形もなく、消えてしまっていて、

 

なんだか、むなしい気分になるんです。

 

逆に、文章を書くと、特に小説を書くとします。たとえば、野球について自分の考え方を書こうとします。

 

すると、「これは自分がなんとなく感じていることは、プロの選手はどういう意見を持っているんだろう?」

 

と疑問を持ち、プロの選手のインタビューとか、本とかをみて、それがものすごく勉強になるというか、頭に入るんですね。

 

それを見て、自分の感じたことを話したり、書いたりすると、この世がすごく生き生きしたものに感じられるのです。

 

そういうふうに、なんとなく世の中について行こうすることをやめて、自分の興味に従って、物事にふれると、毎日がとても楽しくなります。

 

 

なかなか陳腐な表現ですね。ほかにもっといい言い方があると思うんですけど、これが今の私の限界なんです。

 

なんというべきか、自分が意識していなかったところに、光が当たるんです。自分の軸で、自分の感性で、しっかりとこの世に自分がいるのだな、と感じられるんです。

 

そんな感じで、この頃は生きています。

 

ありがとうございました。

 

 

私が小説を書く理由

こんにちは。

 

世間は三連休です。

私も、三連休ではあります。

 

髪を切ったりだとか、車のエンジンオイルを交換したりだとか、TSUTAYAで漫画を借りようとして借りないとか、服屋で服を買いにきたのに買わないとか、そういう充実した1日を探しております。

 

今は、エンジンオイルの交換の完了を待っています。その待ち時間でこの文章を書いているわけです、はい。

 

そんな、なんでもないような1日を過ごしているわけです。

 

よくとらえれば、自分の身を整えるというか、自分を少しアップデートしている、っていう感じですかね。

 

本当は、家に帰って、小説をカリカリ書きたいところではあるのですが。

 

小説を書いていて思うのは、自分の考えや知識というのものは、本当に浅はかなもので、少ない経験と、想像力を合わせて、なんらかの形をかろうじて作っているのだなぁ、と感じております。

 

自分という人間の持っている、語彙や表現力の限界のようなを毎日のように感じながら文章を書いているわけです。逆に、毎日のように限界の先へ、世界が広がっていくのも確かです。

 

例えば、雲の形だとか、植物の名前だとか、車の名前だとか、服の名前だとか、そういうものに対して、これまでの20年と幾ばくかの人生で、いかに注意を払ってこなかったか、というようなことです。

 

そういう形で、自分の世界が少しずつ広がっていくのが、小説を書くことの醍醐味だと、今のところ、私は考えています。

 

あと、小説を書いていて感じるのは、自分という存在は、「時代の器」だなということです。

 

あんまり、意味がわからないですよね。どういうことかというと、

 

個性とか、自分の考えとか、教育の場で熱心に語られそうなそれらは、実際のところ、あんまりないんじゃないかなって思っています。

 

語弊がありますね。

 

私が言いたいのは、その人の考えというのは、学歴とか、職業とか、役職とか、置かれている立場とか、住んでいる場所とか、友人関係とか、そういう「環境」で大きく決められてしまうのではないか、ということ。

 

そういうカテゴリー的に分けていくと、わかりあえる人と、わかりあえない人も決まっていくということ。

 

「環境」で、行動の指向性がだいたい決まってくるということ。

 

私自身も、そういう自分の「環境」によって、田舎の出身だとか、だ大卒だとか、海外志向だとか、旅行が好きだとか、読書が好きだとか、

 

そういうものの組み合わせて、自分の考えというのは決定されているのでしょう。

 

そして今、私は小説を書くことを通して、いかに環境や経験によって、自分の考えや行動が作られてきたかということを痛感しています。

 

そういう自分が嫌になったりもするし、そういう自分であるからこそ、好きとまでいくとあれですけど、自分は自分なんだなぁ、思うわけです。

 

ある意味、自分の限界を知ると同時に自分から自由になれるのです。

 

そういう自分の底に流れるものを活かしながら、同時に、新しいもの(考えや経験)を染み込ませながら、自分の小説、世界を創っていきたいな、と考えております。

 

今日はそんなところです。

2017年衆議院選挙について

おはようございます。

 

私は、選挙の日ですね。

けっこう周りでは期日前投票を済ませている人が多かったです。

 

あるいは、最初から投票しないことにしている親族もいました。

 

投票という行為は、とても不思議なもので、どんなに与党の応援していても、あるいは特定の野党を応援する言動をしていても、選挙でどこに投票したということが、全くわからないのです。

 

それが、たとえ、立候補であっても、「やっぱり当選したくないな」と思ったら、自分自身に投票していないかもしれないのです。

 

さすがに、ちょっと無理がありますか?笑

 

そのなんというか、疑心暗鬼で不思議だな、と思うわけです。

 

それで、投票結果をみて、どういう意図が有権者になったかを、それらしく分析する。根拠、原因がなんだかよくわからないけど、解釈を加えてる。

 

ごくごく当たり前のことですが、普段の生活では決してない、なんだか変わったイベントだなと思うわけです。

 

じゃあ自分が、今回、どうしたかというと、

 

その、具体的な政党や候補者を出すと違反らしいので、なんとかなくぼかした表現をしています。まぁ、こんな出来たてのブログに何の影響力もないのですが、特定の政党、候補者への投票の呼びかけの意図はまったくございません。

 

保守とか、リベラルとか、革新とか、そういう言葉の定義のねじれ、ゆらぎ、限界のようなものを多いに感じた選挙でした。

 

与党は優勢ではありましたが、混沌とした感じがありました。

 

大事だなと、思ったのは二つあって、

 

一つは、世の中がより良い、よりマシな方向に変わっていけること、

 

もう一つは、日本の雰囲気が少しでも、多様性に寛容で、相手の背景などを尊重するような他者に対してのゆとりがあるふうに変わっていけること、

 

そういうことを考えて投票しました。

 

自分が求めている変化を100パーセント実現する政党、候補者なんて存在しないし、そもそも、自分が何を求めているのかを自分で100パーセントわかるということもできないですし、

 

なんというか、自分の理想を実現する政党や候補者がいないと嘆いていたのは、私はいくらか傲慢だったかもしれないと思いました。

 

政治には期待しすぎてもいけないし、いや、「いけない」というのは、禁止を強いていますね。

 

その。期待しすぎるのもアレですし、諦めてしまうのもアレだな、というのが今回の選挙戦の感想でございました。

 

 

 

はじめに

 

はじめまして。

 

worldviewofmineです。

長ったらしいですね。

 

私にはちゃんとした、鈴木的、佐藤的などこにでもあるような名前があるのですが、諸般の事情で名乗りません。

 

そうですね、ここでは仮に世界民男とでもしておきましょうか。無理がありますね。

 

はてなブログをはじめたきっかけは、もともと別の名でやっていたのです。割と実名を出したりして、オープンな活動をしていました。

 

ですが、環境が変わりまして、言動を統制、管理するような所にいるので、あるいは、他人のことに関して何かと詮索する所にいるので、実名を出すことをやめようと決意したのでした。

 

そういう全体主義的な体制に対しても、物を申したいところありますし。

 

そういうわけで、名もなき、できるだけ匿名な形で、活動を開始したわけです。なので、地名や所属など、個人を特定できるような情報はできるだけ控えながら、その分自由に(?)、

 

いろんな話を垂れ流していきたい考えております。どうぞよろしくお願いいたします。