私が小説を書く理由

こんにちは。

 

世間は三連休です。

私も、三連休ではあります。

 

髪を切ったりだとか、車のエンジンオイルを交換したりだとか、TSUTAYAで漫画を借りようとして借りないとか、服屋で服を買いにきたのに買わないとか、そういう充実した1日を探しております。

 

今は、エンジンオイルの交換の完了を待っています。その待ち時間でこの文章を書いているわけです、はい。

 

そんな、なんでもないような1日を過ごしているわけです。

 

よくとらえれば、自分の身を整えるというか、自分を少しアップデートしている、っていう感じですかね。

 

本当は、家に帰って、小説をカリカリ書きたいところではあるのですが。

 

小説を書いていて思うのは、自分の考えや知識というのものは、本当に浅はかなもので、少ない経験と、想像力を合わせて、なんらかの形をかろうじて作っているのだなぁ、と感じております。

 

自分という人間の持っている、語彙や表現力の限界のようなを毎日のように感じながら文章を書いているわけです。逆に、毎日のように限界の先へ、世界が広がっていくのも確かです。

 

例えば、雲の形だとか、植物の名前だとか、車の名前だとか、服の名前だとか、そういうものに対して、これまでの20年と幾ばくかの人生で、いかに注意を払ってこなかったか、というようなことです。

 

そういう形で、自分の世界が少しずつ広がっていくのが、小説を書くことの醍醐味だと、今のところ、私は考えています。

 

あと、小説を書いていて感じるのは、自分という存在は、「時代の器」だなということです。

 

あんまり、意味がわからないですよね。どういうことかというと、

 

個性とか、自分の考えとか、教育の場で熱心に語られそうなそれらは、実際のところ、あんまりないんじゃないかなって思っています。

 

語弊がありますね。

 

私が言いたいのは、その人の考えというのは、学歴とか、職業とか、役職とか、置かれている立場とか、住んでいる場所とか、友人関係とか、そういう「環境」で大きく決められてしまうのではないか、ということ。

 

そういうカテゴリー的に分けていくと、わかりあえる人と、わかりあえない人も決まっていくということ。

 

「環境」で、行動の指向性がだいたい決まってくるということ。

 

私自身も、そういう自分の「環境」によって、田舎の出身だとか、だ大卒だとか、海外志向だとか、旅行が好きだとか、読書が好きだとか、

 

そういうものの組み合わせて、自分の考えというのは決定されているのでしょう。

 

そして今、私は小説を書くことを通して、いかに環境や経験によって、自分の考えや行動が作られてきたかということを痛感しています。

 

そういう自分が嫌になったりもするし、そういう自分であるからこそ、好きとまでいくとあれですけど、自分は自分なんだなぁ、思うわけです。

 

ある意味、自分の限界を知ると同時に自分から自由になれるのです。

 

そういう自分の底に流れるものを活かしながら、同時に、新しいもの(考えや経験)を染み込ませながら、自分の小説、世界を創っていきたいな、と考えております。

 

今日はそんなところです。